市原市で活き活きと活動している人にスポットをあて、シリーズで紹介しています。4年前に大阪から市原に転入して、直後からPTA連合会会長として活躍された森山さんにお話しを伺いました。
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●プロフィール●
大阪生まれ、大阪育ち。知的・身体共に重度の障害をもつお子さんが16才の時、夫の転勤で市原市へ。翌年から2年間、袖ケ浦特別支援学校PTA会長と千葉県特別支援学校PTA連合会会長を務める。現在は市原市肢体不自由児者父母の会の理事、こども病院の「かるがもハウス」清掃ボランティア活動をしている。 |
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息子さんは大阪で公立の小・中学校に通学されていたそうですが、どんな学校生活でしたか?
森山 息子のような重度の子供には介助員が必ず付き、支援学級には看護師がいて、通常学級と支援学級の担任の連携が良く、行き届いた支援体制でした。小学6年生の運動会の組み体操は、装具を付けて先生にサポートしてもらい3人技にチャレンジ、中学校の体育祭では友達に車椅子を押してもらってリレーにも出ました。 障がいが重くても、どうすれば皆と一緒にやれるかを考えてもらい、それが特別支援であり周囲の理解・啓発にもなったと思います。
千葉に来られて一年も経たないうちに、PTA会長や千葉県特別支援学校PTA連合会の会長をされましたが、活動を通して感じたことは?
森山 不安もありましたが、前例踏襲に縛られず、様々なチャレンジをしました。知らないことは決してマイナスではありません。「わからなかったら聞けばいい」と、いつも校長先生に教えてもらいました。 県下34校を束ねる連合会の会長を務めることができたのは、先生方や保護者の協力あってのこと。強い絆を感じた2年間で貴重な経験になりました。
人権運動が盛んな大阪から千葉に来られて感じたことは?
森山 障がい児・者が街に出ていないなと感じました。その理由は周囲の理解がなく、好奇の目で見られることに耐えられないということだと思います。
障がい児を育てているお母さん方にメッセージを
森山 黙っていては何も変わりません。出さないから珍しい→珍しいから見られる→見られるから出さない。この負の連鎖を断ち切ることが必要です。もっと外に出ていろんな人に思いを伝えてください。それが社会を変える力になるのだと思います。 |